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存在という名のダンス / 大崎善生 


存在という名のダンス 上存在という名のダンス 上
(2010/01/30)
大崎 善生

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存在という名のダンス 下存在という名のダンス 下
(2010/01/30)
大崎 善生

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大崎善生、12歳の小学生を主人公とした、まさかのファンタジー。
でも舞台はやっぱり北海道。大崎クオリティ。本を開くと、本編の前に北海道の西半分の地図が載っている。

父の危篤を知った主人公の宗太は、岩見沢の「施設」を脱走し、父のいる函館を目指して歩き始める。旅の道連れはセキセイインコのルビー。これがよく喋る。このルビーは喋るどころか宗太と会話してる。ドリトル先生のオウムほどではないけど。

始めのうちは、ロードムービー的な冒険が始まるのかと思って読んでいた。

しかし第2章に入ると場面も時代も突然切り替わり、「施設」の創設者である加納重吾郎の物語が始まる。あの戦争の末期、樺太で医者をしていた加納は、日本の敗戦に伴うロシアの侵攻の最中、「存在という名のダンス」を目撃することになる。

焼け焦げ氏にゆく兵士たちは、炎に包まれながら手を広げ足を曲げ髪を業火に焼かれながら、ダンスを踊っていた。加納にはそうとしか見えなかった。戦争という抗いがたい運命の中で、生きたまま火に焼かれた兵士たちは一人の人間としての存在を示すために、ダンスを踊っているのだ。
存在のためのダンス。
体育館を包み込むオレンジ色の炎。人間が焼け焦げる匂い。立ち込める煙。
その中で体をぐにゃぐにゃにさせて踊る死にゆく兵士たち。最後の最後における自分の存在を知らしめるために。立ち込める煙と焼かれる火の中に手足を伸ばす。
(p80)


その後のある邂逅と苦悩の中で、加納は「施設」を立ち上げる。それがそもそもの物語の始まりだったのだ。

この加納重吾郎の苦悩や葛藤のシーンに、鬼気迫るものを感じた。
上巻は面白かったんだ。江戸時代のキリスト教弾圧なども絡めて、人間自身がどうしようもなく持っている「憎悪」という感情に、それでも空しい対抗を続ける人間、という構図が小説の枠組みなのだと感じていた。確かにこれは壮大なテーマを軸にした叙事詩たりうると感じていた。


しかし途中から、現代劇とファンタジーの違和が拡大していき、ストーリーを受け入れられなくなってくる。悪の組織「荻野団」・伝説の戦士・狂熊「邪王」・謎の衝撃波を放つおばさんなど、安易に厨二的なキーワードはあまりに薄ら寒く、その他の文章がまともなだけに異彩を放っていた。

また実在の事件であるという「ハーメルンの笛吹男」もストーリーの根幹に関わってくるのだが、そもそもその設定の必要性もよくわからなかった。


大崎善生は私小説作家でありノンフィクション作家であると思っている。すなわち、自分が見聞きしたことから文章を紡ぐタイプだ。ファンタジーを書くにあたっても、例えば今回であれば、隠れキリシタン縁の地である五島列島に取材に行ったのだろうと思う。しかしこの「憎悪」というテーマは、何を見て感じ取ったものなのか、気になる。
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